〜団長の回想〜

1.誕生の瞬間

1985年4月13日(土)に愛知県海部郡美和町立美和中学校の会議室に集まったのは20人を超えていたと思います。集まったのは中学・高校で吹奏楽を経験した人たちで、わたしたち(今の団長を含む数名の発起人)の、「高校卒業後に吹奏楽を楽しめる場が少ないから、自分達でつくってしまおうぜ」という呼びかけに答えてくれた美和中学校吹奏楽部卒業生の人達です。

設立後は中学校や小学校の体育館を借りていましたが、その後、美和町立中央公民館を利用することが出来て、そこが我々の拠点となりました。


2.団長決まる!

わたし(つまり、今の団長)は吹奏楽経験者では有りましたが、美和中学校吹奏楽部OBではありませんでした。というのも、今の美和中学校吹奏楽部は、わたしが中学3年のときに創部されたからです。当時のわたしはバレーボール部で、おしも押されぬ幽霊部員として名をはせておりました。美和吹奏楽団設立にあたり、美和中学校吹奏楽部設立時メンバーも当然発起人に名を連ねていましたので、当然そのうちの誰かが団長になる、という雰囲気でした。ところが・・・。

設立総会の事前打ち合わせのとき、発起人の1人(全世界に向けてその名前を発表することはしませんが)がこういったのです。「新しく作る吹奏楽団だから、団長は部活の経験者じゃないほうがいい」つまり、部活の延長ではない、新しいグループをつくろうという意気込みがあったわけです。少なくとも当時のわたしはそのように解釈したのです。それが、彼らの巧妙な罠であったとも知らず・・・。

おだてられると、木に登るくせの有るわたしは、設立総会の場で団長に推薦されるやいなや、団長になった時の決意表明をしてしまったのでした。他に立候補者もいないまま、わたしは団長に選出されました。いまだに当時のメンバーからは、「あれは、本当にうまくいったなぁ」とからかわれております。


3.ファーストコンサート

団長になったからといって、わたしだけが何かをしていたわけではありません。むしろ、大学生だったわたしは、学校などの都合で設立当初は何も出来ず、かなり迷惑をかけたのを覚えています。

設立から半年以上が経った頃、美和町に文化協会が設立される運びとなりました。幸いにして美和吹奏楽団も参加させていただくことになりましたが、それにつれて翌年11月の文化祭で演奏することになったのです。まだ、人前で演奏したことのないわたしたちは当然焦りました。というより、初めての人前での演奏は独自のコンサートにしたい、という願望があったからです。そこで、11月になる前にコンサートを開こう、ということになりました。

開催日を決定するに当たって、学生が多い関係上、夏休み中がイイだろうということになりました。うまいことに8月30日が日曜日で、しかもわたしの誕生日ではないですか。

ここはもう、団長権限(実際にはそんなもの、まったくありませんが)で、この日をファーストコンサートとしました。副題に「団長、誕生日おめでとうコンサート」を提案しましたが、これは3秒で却下でした。


4.台風襲来!

ファーストコンサートを無事終了させた翌年。調子づいた我々は次のコンサートを「定期演奏会」にしようじゃないか、と盛り上がりました。今でこそ、定期演奏会なんて当たり前ですが、当時は「定期」といってしまって良いのか、ということで悩みました。

毎年演奏会が開催できる保証なんてどこにもないし、変に「定期」なんて言わなくても、やれるときに演奏会を開けば良いんじゃないか、とも思いました。それでも、だらだらと活動を続けていくより何かの目標があった方が良い、という意見が多く「第1回定期演奏会」と銘打ってコンサートを開いたのです。

第1回定期演奏会は無事終了しました。ところが、早速我々の心配が的中しました。第1回定期演奏会の翌年。つまり1989年に演奏会を開催することが出来ませんでした。何故ひらけなかったのかは記憶にも記録にもありません。昭和が終わり平成に変わったことが影響していたのかもしれません。メンバーから「2年に一回でも定期だよね」と呑気な言葉をいただいたのだけは覚えています。

さらにその翌年。なんとか第2回定期演奏会開催のめどが立ちました。しかも今回は母校である美和中学校吹奏楽部とのジョイントコンサート。もうその当時はメンバーの中にも美和中学校OBでない人間も混じってはおりましたが、やはり意気込みが違います。はりきって準備をしました。中学校とも打ち合わせをし、会場の吊り看板も丸1日かけて作成しました。ところが・・

前日から天気予報は台風接近を告げています。コースも微妙で当日にならなければ直撃するかどうかがわからない状態。祈るような思いで明くる朝を迎えました。雨は降っていません。でも風が異常に強い状態でした。当然のように暴風雨警報(当時)が発令されていて演奏会会場である美和町中央公民館は利用停止です。演奏会は中止になりました。

中学校の部員たちにはすでに連絡網がまわり、中止が告げられていたので様子を見に来てくれた先生を除いて公民館にはきていません。我々、団員は撤去がありますので、出演者全員が集まりました。まったく責任はないのですが、公民館職員の方が非常に気の毒そうに対応してくれました。公民館の舞台では昨日から置きっぱなしになっている楽器が寂しそうに光っています。

公民館での定期演奏会は講堂を使いますので客席も自分たちですべて並べます。避難のじゃまになるといけないので、先に客席を撤去しました。次に舞台です。楽器を片づけ始めようとしたとき、公民館職員の方のご厚意をいただき一曲だけ演奏させて頂くことにしました。警報がでているとはいえ、避難勧告などがでているわけでもなく公民館にいるのは職員の方と中学校の先生だけ。それでも我々は一生懸命演奏しました。

1曲だけの演奏でしたが、我々はこれを第2回定期演奏会としました。だから、その翌年は第3回定期演奏会となっています。


5.駐車場デビュー!

第3回定期演奏会の翌年。美和町役場からサマーフェスティバルへの出演依頼をいただきました。公民館の駐車場を大々的につかい、縁日や催し物、映画上映をするお祭りです。しかも、ギャラがいただけるとのこと・・。

今なら、いただいたギャラで飲めや歌えやの大騒ぎ、となるところでしょうが、当時何を考えたのか「頂いたお金はきっちりとコンサート用に使わなければいけない!!」と考えてしまいました。ちなみに、当時の団長は私ではありません。幸いにも90年に結婚することが出来て、名古屋市内に居を構えていた関係上、美和町内に住む別の楽団設立メンバーに団長を譲っておりました。

結局、出演者全員でおそろいのTシャツを作成しました。そして、バトントワリングチームを招聘して、室内のコンサートではやりにくいバトンとの競演を行いました。当時は新団長が指揮を振っておりましたので、全体の進行を私がつとめ、出演者へのインタビューや客席とのトークなどをしておりました。これは今でも続いていますね。

ステージは1時間あり映画上映の前という位置でしたから、演奏をしている途中でどんどん暗くなっていきます。いやぁ、焦りました。楽譜が見えなくなってくるんですから。夜は映画鑑賞が主なので駐車場に照明はつけられていませんでした。なんとか真っ暗になる前に予定曲を終了し、早々に退散しました。


6.そして10周年

駐車場での演奏から数年とたたないうちに、また私が団長に復帰しました。いろいろと家の事情があって美和町に戻ってきたことや、当時の団長が仕事の関係で上京しなくてはならなくなったことが合わさってのことです。

さて、美和町にも文化会館が建設されることになりました。完成予定は94年の秋です。駐車場デビューがあってから、我々の定期演奏会を11月に移動させていましたので、これは新しい会館で定期演奏会ができるぞ、と喜んでおりました。ところが、我々が予定していた11月はこけら落とし行事で新しい会館が使えません。使えるのが12月の後半以降だと聞かされて、泣く泣くこの年も演奏会開催をあきらめました。そして、設立10周年の95年に向けて気持ちを切り替えていこうと言うことになりました。

いよいよ95年がやってきました。設立10周年です。よくもここまで続いたものだ、と本当に感心しました。同年代の人たちが集まり、特に指導者などを招聘せずに自分たちの力だけで、やってきたのですから、ここではとても書けないような喧嘩もしました。音楽に対する意見が合わずに途中で抜けていったものもたくさんいます。そんな思いを演奏会で表現すべく、ラインナップは今までのコンサートから曲目をチョイスした「美和吹ベスト」としました。ちょうど演奏会で取り上げる曲のパターンもマンネリ化しはじめていた頃だったので、これを機会に今までの曲を封印して新しい美和吹を築こうなんていう意見もありました。

10周年コンサートは大成功だったと思います。演奏会そのもの全てに満足しているわけではありませんが、少なくとも力を出しきれたと今でも思っています。


7.そして20周年

2005年には我々も創立20周年を迎えます。10周年記念コンサートを終えて以来、美和吹コンサートのパターンというものができました。パターンが出来るまでは試行錯誤の繰り返しです。団の運営で何をすれば良いのか、どんな活動をしていけば良いのかわからないことだらけ。今では普通にこなしていることでも常に必死になって対応してきました。

世の中では「効率化」こそ大切と言われています。それから考えると設立10周年までの我々は「非効率」の固まりです。そして、10周年以降20周年までの我々は実に効率の良い集団へと変わりました。これはコンピュータのおかげというのもおおきいのでしょうね。ただ、どちらが楽しかったのかと言われると、明らかに10周年までの我々の方が楽しかったと思います。必死な分だけ思い出もたくさんあります。

実は、前項を書いたあと、各コンサートでのエピソードを書きおこしていこうと思ったのですが、どうしても書けませんでした。覚えていないわけではありません。なんだか自分がこなしてきた「仕事」をただ振り返るだけのような気がして興味がわきませんでした。だから、いきなり20周年に飛びました。いつか、各コンサートのエピソードを書く日がくるかもしれませんが今はおあずけです。

20周年を迎えると私も40の大台に乗ってしまいます。ああ・・。

昔のような体力はありませんが、気持ちまで老け込む必要はありません。もう一度10周年の時のような感動を得るために、今(2004年)から2005年への準備を始めています。

私ひとりの考えで美和吹が動くわけではありませんが、少なくとも団運営の根底として 「楽しいことがしたい!!」 という思いがあります。大雑把に言えば「楽しければなんでもいいじゃん」ということですし、少々かみ砕いて言えば「音を楽しむという音楽本来の姿に立ち返り、吹奏楽というスタイルを通じて表現したい」ということです。

苦労が合ってこそ楽しみも倍増します。なのに、ここ10年間は「やれること」を最優先して「やりたいこと」を後回しにしてきました。もう一度原点に戻ってみんなで楽しみたいと、今痛切に思っています。

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